2008年2月25日月曜日

反応

化学反応ではない。人の反応である。
昨日、三枚のお札の人形劇をやった。
いつもは子ども相手なので鬼婆が出たところで泣く子、わめく子、逃げてどっかに行っちゃう子、たまにお漏らしする子。たくさんの反応があってとってもうれしい。
ところが、昨日はおとなが相手。行儀よく観なきゃと思う気持ちが大きくて、反応ゼロ
鬼婆が、「小僧はどこに行った!!!!」と会場に聞いても「………」
聞いた鬼婆はどうしようもなくなって「こら待てー」とお決まりの方向へ。
流れた汗はきっと暖房のせいだったのだと思うことにします。

「相手を考えて反応してあげてよ!!!」

2008年2月22日金曜日

見習うべきもの

今朝のテレビで18歳のテニスプレーヤーが、全米ツアーで好成績であるというニュースを報道していた。
その中で、同じアメリカにいるメージャーリーガーであるイチロー選手や野茂投手に対して見習うべきところはあるかという問いに「何も無い」と答えた。それを見ていた子どもが、「だめだこいつ、今はいい成績かもしれないがきっと早いうちにダメになる!」と言い放った。
私が驚いてなぜなのか尋ねると、「どんな人にも見習うべきところは必ずある。それに気づかず偉そうに無いなんていうやつは先が見えている」というのである。
いつでも、どこでも、誰にでもある見習うべきところが見つけられず、自分ひとりでがんばっているなんて大声で言うやつは、背負っているものに気づかない、ここ一番で力が出せないのだ。(精神力の一番深いところがもろいということ)
見習うべきところが見つけられないが、見習うことは必要なことだと気づいている我が子はすごいとおもった朝であった。

我以外皆師 (武者小路実篤)

2008年2月14日木曜日

勉強はなぜするのか

昨日の新聞に中学生の投稿で「勉強はなぜするのでしょうか」という一文が掲載されていた。
中学生ではまだ分からないと思う。「勉強する意味」
やはり、就職して自分で給料をもらうようになって、なぜ勉強が必要なのかを身にしみて感じるのではないだろうか。(感じるのである。知るのではない。)
勉強をする意味は、自分にはどうすることもできない条件以外の部分の可能性を広げることだと私は思っている。
自分にはどうすることもできない条件、それは、性別、年齢、出身地などのこと。
だが、それ以外の部分は自分の努力次第で変えることができるのだ。
それ以外の部分とは、経験、学歴、生活リズム、体型などなど。
後は変えようとするかどうするか自分の意志だけである。
中学生なら、まだまだ自分の生きる意味なんか考えつかないかもしれない。
でも、中学生だからこそ大きな可能性を秘めている。
レッツ チャレンジ するかどうか。
自分を変えられるかどうか、「勉強はなぜするのか」に気付いた今がその時期なのではないだろうか。

2008年2月10日日曜日

意外性

サッカーの岡田Japnの攻撃をテレビで解説していた。
ゴール際での攻めで、8割は広い方にボールを蹴るものだ、ところが今回はあえて狭い方にボールを蹴るという予想もつかないことをした、
こういう意外性のある攻撃をして相手を少なからず錯乱させるのも一つの作戦と言うことを解説していた。
先生が、「剣道は、剣先で相手と会話しているんだ」と言っていた、そこで、攻め合いをして打っていく。
いろんな人がいて、いろんな攻め方があって、打ち方がある。攻めて相手に読まれたら防がれる。攻めて相手に読まれたと思うところの裏を攻める。
そこが相手のいる武道競技のおもしろいところかも知れませんな。

2008年2月8日金曜日

視点

久しぶりの父母会当番。
中学生の切り返しを見た。さすがに経験者はと思ったら、あれ?
何か変だ!
頭がフラフラしてるぞ!要するに、打とうとするところを見ているということ。切り返しは相手は打ってこない。
だが、相手が打って来ることを考えたら、打とうとするところを見たらそれで、もう遅れてしまう。
先生方は、遠山の目付という。山の木一本一本を見るのではなく山全体を見る、遠くの山を見るような見方をしろと。
一点だけを見ていたら、確かにどこから打ってくるのか見えなくなる可能性もある。
とにかく相手の目から視線をはずさない、自分の県線の先にあるものは、相手の目だということを忘れてはいけないのかなと思う。

2008年2月1日金曜日

言語が消えるということ

昨日の新聞に 中国では64の言語か消えつつあるという記事が載っていた。
標準語が普及するということは方言が廃れるということ。
例えば、方言には、その土地その土地の気候によって人の五感の反応を示すことばがあった。
それが消えるということは、人の五感も標準化されつつあるということではないだろうか。
ある地域では、出稼ぎが多かったので、方言では出稼ぎ先で支障が出るということで標準語教育というものが長く学校で行われてきた。
ところが、最近は方言を観光の目玉にしているところが少なくない。例えば、昔語りの部屋とかである。
人間の豊かな五感を大切にしようというのであれば、方言は残るべきであろう。
標準語も使える、そして方言も話せる。それも時と場合に応じてというのが理想的な国語教育なのかもしれない。