2007年6月28日木曜日

がんばるということ

わたしゃ、がんばるということばがきらいです。
がんばらないという意味ではありません。
がんばるということばの使いかたが気に入らないのです。
よく,みんな,がんばれ,がんばれといいますが,何をがんばるの?
がんばるってどういうこと?
国語の辞書で調べたら,
がんばる 頑張る:自分の意地をとおすこと。我慢する。とでた。
え〜、それなら、我慢しろ〜、とか 自分の意地をとおせー!とかいったらいいじゃないか!
なぜ応援するときに、がんばれと言うのか。
応援の時に具体的な指示を口に出せないからなのか?
がんばれーという代わりに,手と足合わせろ〜!と言ってくれた方が,はっとして前に出れるかもしれない。
試合に臨む前に,小さい子に「がんばれよ」と言うより,「声出していけよ,足からいけよ」と言ってくれた方が,試合の後に,がんばれたかという抽象的自己評価より,「声は出せたけれど,前には出れなかったなあ」という具体的自己評価が出来るようになる。
がんばれは、とっても便利で楽なことばだけれど,とっても複雑で,難しいことばである。時には,人の心を押し潰す重いことばを,軽く使ってほしくないと思うのである。

2007年6月17日日曜日

試合デビュー

今日の区民大会で初の試合出場をしました。
個人戦,3人のトーナメント。
結果は…。
1戦目:メン,メンで…。
2戦目:メン,コテで…。
ン〜ン…。
3人しか出場しないのに,3位というのも複雑で,賞状もらうのも気が退けましたが,子供たちってすごい緊張の中でやっているのだということがよくわかりました。
段審査の時の緊張とはやはり違います。
団体競技の球技とも違いますねぇ。
負けても,何かしら学ぶことがありました。また明日から出直しです。
チャンスがあったらまた大会とか出てみたいものです。(その前に今日の試合でわかった課題を解決できるように稽古するのが先ですがね)
子供たちに声をかけるときにも心していいましょう。

AのプレッシャーとBのプライド

Aチームといえば強いチーム、Bチームといえばもうちょっとのチームとなることが多い。
でも、Aチームは勝って当然というプレッシャーとも戦わなくてはならない。それでもAチームに入りたいとみんな稽古をする。
Bチームはその点、気楽といったら大変失礼だが,開きなおって戦える。
いつかは、Aチームにという想いは強いはず。要するにいつでもAチームに取って代わってやる、という強い想いはを忘れていないはずである。(忘れられると困るけど。)
ということは、Aは,対戦相手とBからのプレッシャーを常に感じていなければならないし、Bは、いつでもAに取って代われるだけの力を持っているんだ,自分たちはそれだけの事をしているんだという自信をもって稽古に臨み,試合でも力を発揮出来るように日常生活も摂生しなくてはならないだろう。

2007年6月12日火曜日

平等ってなんじゃろなぁ

昨日ある会議で、平等とは

必要な人には必要なだけ与え,必要としない人には与えなくてもよい。それが平等である。

と、言われた方がいた。
ほ~っとその語り口に感心したが,よく話の意味を考えてみるとなんか釈然としないのである。
広辞苑で平等を調べてみると
偏りや差別がなく全てのものが一様で等しいこと。

平等権:国政において人種・信条・性別・社会的身分・門地等で差別されない権利
とある。
彼の人が言った平等の定義でいくと声をあげたもの勝ち、必要だけども,必要だと言えない人には与えないということになる。
門地等で差別を受けないのであれば、道路を隔ててサービスが異なると言うことはあってはならないはずである。
サービスの目的,意義をきちんと踏まえて平等の意味を考えるのが大本ではないだろうか。
サービスには格差があってあたりまえと公然と言うことがおかしい,サービスの目的を踏まえた上でどうにかしようと思うことが重要で,具体的にどう行動したら良いかと考えることが先ではないだろうか。
習慣的にやってきてしまって,不思議と思わなくなっていることは多いはずである。
なぜ今こういうことをしているのか、なぜ始めたのかまで戻って、平等を考えてみようじゃないか。

2007年6月10日日曜日

ひとかべ川の役割

鷺です。
今日のひとかべ川の一斉作業の帰りに、みかけました。すっと首を伸ばして何を見ているのか。
やはり川縁はいいですね。一日中川面を見ていても飽きません。
今日は,草焼きをしていて少し煙かったですが。
のんびり散歩してよし,ぼんやり橋から魚を見るもよし,草刈りに参加するもよし。
阿武隈川の隈畔とはくらべものになりませんが,故郷の川ということになるのでしょうか。

2007年6月3日日曜日

子どもとの役割分担

この前,どうも親が子どもに干渉しすぎるという意見があり,子供たちにはどういうことをやってもらわなければならないかということを紙に書き出してみた。
書き出してみると,もういい歳越えた中学生だもの,このくらいは出来て当たり前,と言うかやらなきゃならないだろうと基準にすると,親がするべき事って,ほとんどない。
子供たちの「助けてくれ」の信号を如何にキャッチするか,またその信号に対して,本当に出すべき信号だったのかの判断が親の方でも出来ないと,この役割分担は無駄な事だなと思う。
子どもの代わりに親が答えてしまったり,子どもが確認するべき事を親が勝手に判断してしまったりと,少し親は一歩引いてはらはらしながら見ているのが,今の彼らへの一番の支援かな。
そういう観点で親の役割,(子どもへの接し方)は,軽くなっているようで,実は難しくなっているようです。
手を出してしまうのは簡単だけれども,手を出すことが子供たちをダメにする(出来ないことを増やしている)事だとなかなか気付けないのが悲しいです。

日々反省です。

2007年6月2日土曜日

胆江地区剣道錬成会

地区中総体の前哨戦ともいえる錬成会。
戦績は…
五分五分でしょうか?